コニャック・ポールジロー ラ・ロンコントルの商品写真コニャック・ポールジロー ラ・ロンコントルの商品写真

伊万里鍋島焼の名門
畑萬陶苑作
コニャック・ポールジロー
ラ・ロンコントル

“出会い( La Rencontre )”という名の一瓶のコニャック。
その名の通り、これは一つの運命的な“出会い”によって誕生した、職人同士の魂の合作である。
1600年代から400年以上もの間、コニャック地方のグランシャンパーニュ地区・ブートビル村において代々コニャックの生産に携わるポールジロー。
肥前佐賀藩が御用窯を築窯した大川内山にて、伊万里鍋島焼の歴史や伝統技術の担い手として日本的美的感覚を体現する畑萬陶苑。
樽を貯蔵している写真
それは、単なる物理的な出会いではない。
二人の職人が代々受け継いできた手仕事への情熱と伝統への誇りに対し、互いが敬意を持ち、思想を分かち合うことで生まれた、他では得難き出会いなのである。
コニャック・ポールジロー ラ・ロンコントルの商品写真

伊万里鍋島焼の名門 畑萬陶苑作
コニャック・ポールジロー
ラ・ロンコントル

地域:コニャック
グランシャンパーニュ

蒸留:1945年、1946年、
1947年、1962年

瓶詰:2021年
容量:450ml
アルコール度数:40度
価格:¥330,000(税込)
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PRODUCT DETAILS

美を追求し、伝統工芸を守り抜く

この作品の構想は、ポールジロー氏が初めて日本を訪れた2006年に起源を遡る。氏は札幌・東京・京都・福岡で行われたセミナーに登壇し、参加者と交流を深めた。また各地でさまざまな日本文化に触れ、その豊かさに驚嘆したという。
そして佐賀県伊万里市を訪れた氏は、畑萬陶苑のある人里離れた大川内山に、自らが住むブートビル村と同じ空気を感じ取った。
職人を制作活動に向かわせる情熱、土や大地との関わり、火を用いるということ。畑萬陶苑の工房を見学するうちに自らの仕事との共通点を数多く見出し、美を追求するその姿に深い感銘を覚えた。
畑萬陶苑で絵付け体験を行った際のカップは、今も当時の思い出と共に大事に保管されている。
絵付け体験を行った際のカップの写真
来日より数年後、厳選した美しい陶器に稀少なコニャックの原酒を入れた特別品を作るという企画が本格的に立ち上がる。
当初はフランス中央のリモージュ焼も候補に挙がったという。
ポールジロー氏もリモージュの工房に足を運び試行錯誤を重ねたが、最終的に選ばれたのは日本の畑萬陶苑だった。
畑萬陶苑の作陶によってのみ、今回の合作が特別なものとなる。
氏がそう感じたのは、かつての訪問時における強烈な印象が、何年経っても色褪せることなく記憶に残っていたからであろう。
そこでは、陶芸家という職人の顔をはっきりと見ることができた。そして職人の熱い血の流れを感じられた。歴史と伝統の中で築かれてきた“職人芸”は、まさしく氏の生き様であり、誇りでもある。その思想を分かち合えたことに心が震えたと真摯に語っていた氏が、畑萬陶苑に白羽の矢を立てたのは自然の流れであった。
畑萬陶苑の写真
江戸時代、将軍家や諸大名へ献上するための上級品を製陶するために築窯された、鍋島藩御用窯。その卓越した陶技の秘法を外部に漏らさぬよう、地元・大川内山の町の入口には関所が設けられていた。
そこでは人の出入りはもちろんのこと、焼成された焼物が市販されることのないよう厳しい取り締まりが行われた。
最高の職人が造り上げた伊万里焼は、上流階級の人々のみが愛でることのできる稀少品だったのである。
対してその貴重な伊万里焼に注がれるのは、ポールジロー家が誇る極上のヴィンテージ・コニャック。それは1945年・1946年・1947年・1962年という極めつきのオールド・キュヴェをブレンドしたもので、1940年代のキュヴェが比類なき芳香を、そして1960年代のキュヴェが力強いボディを形づくっている。
通常これらのオールド・キュヴェが世に出ることはなく、まさに今、秘蔵の美酒がベールを脱ぐこととなったのである。
門外不出であった器と酒が、いま稀代の出会いを遂げる―それは二人の職人の出会いであり、彼らが担ってきた歴史の出会いでもあるのだ。
伊万里焼の写真1伊万里焼の写真2
伊万里焼の写真3伊万里焼の写真4
しかしいざ作品を実現化する段階になって、この合作には思わぬ困難が待ち受けていた。貴重な酒を封ずるために必要となる、コルクが器に適合しなかったのだ。
一般的なデキャンタであればその口径は均一だが、人の手で造り上げる伊万里焼の場合、そうはいかない。当然ながら一つ一つに微小なフォルムの差が生じる。口径が大きすぎれば隙間からコニャックが漏れてしまい、小さすぎればコルクが上手く嵌まらないだけでなく、開栓時の破損にもつながる。
また今回の器が一般的な円柱形ではなく、円錐形の瓶口をしていることも事態を複雑なものにした。
さまざまな検討を重ねた結果、最終的には既製品のコルクを採用するのではなく、全ての器の口径を一つ一つ丁寧に計測し、それぞれの器のサイズに合わせてコルクを一つずつ手作業で削るという途方もなく緻密な作業によって、この難題は解決されることとなった。
葡萄を一つ一つ手で摘み、瓶詰めから栓を固定するための針金掛けまで、全ての作業を人間の手で行うポールジロー。その氏をして、かつて経験したことがなかったという手作業によるコルク作り。
想像を絶するような手作業の積み重ねの果てに、磨き抜かれた宝石の如き作品が生まれたのである。
特製デキャンタを作成するガラス工房の写真
今回の器は、畑萬陶苑が伝統工芸品の一つとして製作している香水瓶をベースにしている。製作過程において0.1~0.2mmの単位で精度が求められる、微調整を極めた作品であった。
四角の面取りは鋳込み成形となるため、その面取りの部分が凹まないように製造段階で慎重さ、生地の厚みを考慮することが求められた。
またコルクで栓をすることを前提としているため、最も難題となったのは本体とコルクの厳密なマッチングであり、最終的にコルクを一つ一つ削るという微調整によってこの困難を乗り越えた。
絵付けに関しては、下絵付けではなく上絵付けにより、花びら一枚一枚にグラデーションを付けて赤濃を表現した。そのため花びらの枚数分の絵付けを行う必要があり、構入れを五回行って完成した。
完成した特製デキャンタの写真
この作品が完成した今、ポールジロー氏は感慨深くこう語る。
膨大な作業や果てしない忍耐、高い集中力が必要な仕事であったが、お互いに度重なる試行錯誤を経て、ここに二人の職人の合作を誕生させることができた。
美の追求、伝統工芸を守り抜くという意思は、文化や時代を超える。
今回の作品は、本来なら相見えることのなかった日欧の職人が美しい出会いを遂げ完成させた、二つの芸術品の融合とも言うべき存在だ。
今回の作品は、畑萬陶苑の器でしか成し得なかったものだ。
手に取っていただいたお客様には、この作品をじっくりと鑑賞してほしい。そしてコニャックを堪能してほしい。
二つの文化の友好的な対話の証として、この器とコニャックがいつまでも人々の心に残り続けることを願う。
コニャック ポールジローの写真
コニャック ポールジロー
ポールジロー氏は、1600年代までその家系を遡ることができる由緒ある一族の現当主である。コニャック地方のグランシャンパーニュ地区・ブートビル村において、葡萄の栽培から収穫、そして蒸留から熟成まで全ての工程を氏が一人で手掛けており、一族は代々この伝統を受け継ぎながらコニャックの生産に携わってきた。
氏が自らを“Viticulture”(葡萄農家)と表現するのは、テロワールや自然に対し畏敬の念を持ち続けているからであろう。果樹の成長を静かに見守り、決して自然に逆らわず、葡萄が本来持つ繊細な華やかさを表現する。
また、それはこの古くからの伝統と技術を粛々と継承し、次世代へ伝えていくという決意の表れなのかもしれない。
畑萬陶苑のイメージ写真
畑萬陶苑
昭和元年、畑石萬太郎により萬洋窯の名で創設。後に畑萬の代表作となる山水絵が生み出された。戦後、二代目・畑石春幸が畑萬製陶所を設立。銀座三越において山水絵の売り出しに取り組み、一躍畑萬としてのブランドが知られるようになった。三代目・畑石正博により社名を畑萬陶苑と改め、墨山水という独自性のある商品を開発。平成二年、四代目・畑石眞嗣が社長に就任し、 ひな人形や鍋島シリーズなどを展開。かつて肥前佐賀藩鍋島侯の御用窯があり「秘窯の里」と呼ばれる大川内山を拠点に、伝統技術の担い手として活動を続けている。
伊万里鍋島焼の写真
伊万里鍋島焼の歴史
鍋島藩が伊万里市大川内町大川内山に鍋島藩御用窯を築窯したのは1665年のこと。将軍家や緒大名への献上品や贈答品として、特別にこの鍋島焼を作らせていた。
その後明治4年(1871年)に廃藩置県が行われ、以降民窯としての作陶に許可が下り、これを機に一般大衆へと浸透していった。
伝統美あふれる高い技術が、令和の現代へも継承され続けている。
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